これはアイドルオタクの僕が、地方に遠征した時の話です。
そこは僕にとって初めて訪れる地で、特に縁もゆかりもありません。
しかし今回のツアー日程が発表された時、なぜか「ここに行かなければならない」と強く思いました。
結果的に良い番号のチケットが取れたので、僕の勘は冴えていたようです。
あるいはチケット運の神様が、僕をこの地に手招いてくれたのかもしれません。
とはいえ惜しみなく推しにお金を使っているので、通帳の残高は常に虫の息です。
生活費は出来るだけ切り詰めていますが、今回の遠征はどう考えても日帰りは厳しい。
仕方なく僕は、安いビジネスホテルをとることにしました。
「あの辺りは昔花街で、今でもその名残があるから、女の子は泊まらない方がいい」とファンのコミュニティ内でも話題になっていましたが、男の自分には関係ありません。
とはいえ実際現地に着くと、淀んだ空気があちこちに漂っていて、あまり良い気はしませんでした。
勿論そんな気持ちは、ライブ前の高揚感にすぐかき消されてしまったのですが。
ライブが終わってホテルに戻り、軽い食事とシャワーを済ませると、僕はすぐにベッドに入りました。
いつもなら
スマホ片手に推しの可愛さを噛み締めるのですが、
その日はなぜかひどく疲れていました。
うとうとまどろんでいると、急に部屋の空気がひんやりと冷たくなりました。
手足が強張り、腹の辺りにずしりとした重みを感じます。
僕にとっては初めての経験でしたが、これが金縛りというものなのでしょう。
冷や汗をかきながら、辛うじて動く瞼を恐る恐る持ち上げてみます。
しかし不用意に目を開けたことを、すぐに僕は後悔しました。
着物を着た色の白い女性が、僕の身体にまたがっていたのです。
目を合わせてはいけない。
咄嗟にそう思いましたが、その時にはもう瞼すら自分の意思で動かせなくなっていました。
生気のない真っ黒な瞳が、僕をじっと見つめています。
彼女はにいっと唇を歪め、僕の上半身をまさぐり始めました。
青白い指先で服をめくられ、氷のように冷たいものが僕の皮膚を撫でてゆきます。
されるがままの僕は、妙に赤い彼女の唇から時折覗く舌を見つめていました。
体温を持たない目の前の女。
しかし艶めかしいその舌だけは、熱を帯びているのかもしれない。
そんなことを考えてしまうのは、彼女の手が僕に快感を与えようとしているように思えてならないからです。
この世のものとは思えない女への恐怖心と、冷たい手の感触で、全身は凍えるほど冷え切っています。
しかし彼女の官能的な手つきによって、僕の下半身にはじんわりと熱が集まり始めていました。
混乱する僕をあざ笑うように、彼女は徐々に顔を近づけてきます。
そして僕の耳に、ふぅっと吐息を吹きかけました。
「あ……」
思いがけない刺激に、僕の肩は小さく跳ね、情けない声がこぼれます。
どうやら既に金縛りは解けているらしく、その気になれば彼女を振り払うことだって出来るはずです。
しかし耳が弱点であることが露呈してしまい、完全に狙いを定められてしまいました。
ぴちゃり。
妖しい水音を立てて、あの魅惑的な舌が僕の耳に這わされます。
ぴちゃり、ぴちゃり。
僕の妄想に反し、その舌は全く熱を持っていませんでした。
ひどく冷たく、しかしたっぷりと湿度を帯びている。
味わったことのない感触のものに容赦なく耳をもてあそばれ、悪寒と快感とが一緒くたに背筋を駆け上がってきます。
おまけに彼女は僕の胸元に指を忍ばせ、丁寧にこねくり回しているのです。
そこまでされてしまえばもう、僕はみっともなく喘ぎ、のたうち回ることしか出来ません。
もうどうにでもなってしまえ――僕が観念したことを悟ったのか、彼女は耳から顔を上げ、唇を寄せてきました。
彼女のふくよかな唇が僕のそれに触れた瞬間……僕ははっきりと思いました。
知っている、と。
その唇の感触を引き金に、僕の頭の中には膨大な映像が流れ込んできたのです。
映像の中には僕と、目の前の彼女の姿がありました。
僕は時代劇の登場人物のような恰好をしていて、彼女は今よりも生き生きとした目をしています。
映像の僕は布団の中で彼女を抱き寄せ、名前を呼んでいました。
つられてその名を復唱すると、彼女はひどく驚いた様子で顔を上げます。
彼女はじっと僕を見つめ、唇を小さく動かしました。
ど、う、し、て。
奇妙なことに、どうやらその映像は、僕の前世の記憶のようでした。
彼女はそこそこ人気のある遊女で、彼女に魅了された僕は、足繁く店に通っていました。
しかし決して裕福ではなかった僕は、次第に借金が膨らんで首が回らなくなり、泣く泣く彼女の元を去ったのでした。
なるほど、僕をこの地に引き寄せたのは、チケット運の神様でも、現在の推しでもない。
前世の僕の推しだったのです。
幽霊になってもなお、彼女は僕が来るのを待っていたのです。
そうか、僕たちは両想いだったんだ!
喜びに打ち震え、僕は何度も彼女の名を呼びました。
しかし僕がその名を呼べば呼ぶほど、彼女は戸惑ったような顔つきになってゆきます。
それはまるで、握手会で推しから「初めまして」と言われ、「前も来たことあるんですけど……」と返したときの、何とも気まずい表情に似ていました。
「どうしたの?僕を待っていてくれたんでしょ?」
痺れを切らしてそう言うと、彼女はばつが悪そうに首を傾げ、そのまますーっと消えてしまいました。
どうやら僕は、彼女に呼び寄せられた訳ではなかった。
オタクの執着心により、時を超えて彼女を探し当ててしまった。
その考えに思い至り、僕はとても誇らしい気持ちになりました。
僕ならきっと、来世でも推しに巡り合える。
あの子が幽霊としてさまよっていたとしても、全く別の姿に生まれ変わったとしても。
僕は高揚した気持ちのまま
スマホを手に取り、
推しの
SNSを開きました。
『ライブありがとう!みんな大好き!』という文字列と、眩しいあの子の笑顔。
手早くコメントを打ち込んだ僕は、ライブ会場に持ち込むことを断念したバッグを手にし、部屋を出ました。
彼女たちが泊まっているホテルの目星はついています。
来世でも必ず見つけられるのなら、今この手で彼女を自分だけのものにしてしまっても、問題はないでしょう。
『僕も大好きだよ。来世も一緒だよ』